泥棒 第1章〜第2章
第一章 概観 ——水平線の測量
p17 マルクス主義にとって歴史が不可欠であるとしたら、アナキズムにとって欠かせないのは地理である。どのような方法によるものであろうと、あらゆる歴史的なアプローチはなんらかの仕方で支配的な立場に対するヒエラルキーに則った解釈をつねに再生産してしまう。 「歴史が時間における地理であるのと同じく、地理とは空間における歴史以外のなにものでもない」
p19 「私たちの政治的目標は(…)、統治の不在であり、アナーキーである。アナーキーとは、秩序の最高度の表れにほかならない。」
p18 アナキストの空間理解は、社会地理学と生態学の先駆けであり、倦むことなく政治的に水平性を理解しようとする。言葉遊びではなく、地理と政治が互いに地盤を整えているのだ。それは、支配の地理学に抗する解放の地理学である。 p20 ここで私が問いたいのは、哲学者たちのアナーキー概念をめぐるアナキズム的失敗である。
水平性の危機
事実としてのアナキズムと目覚めのアナキズムの共存
事実としてのアナキズム
p20 いまやすでに国家は衰退し、世界を股にかけるさまざまな少数の支配者集団を保護する被膜にすぎない。
社会的な関係は遺棄という水平性を余儀なくされている。貧困、移民、環境・衛生上の危機といった脅威に、馬鹿げた緊急措置でしか対応できない。
目覚めのアナキズム
21 このように垂直性が社会的な意味を実際に失うにつれて、集団的な自発性を発展させ、別の政治的一貫性を探る実験を行わなければならないという意識が惑星規模で芽生えてくる。
このように垂直性が社会的な意味を実際に失うにつれて、集団的な自発性を発展させ、別の政治的一貫性を探る実験を行わなければならないという意識が惑星規模で芽生える。
p22 政治ジャーナリストの一部が冗談抜きにドナルド・トランプはアナキストだと主張するとき、ジャーナリストたちは言葉遊びをしているのではなく、世界中が重大な危機と感じているものを明確にしようとしているのだ。それは、統治の暴力と生の際限なきウーバー化というハイブリッドな組み合わせである。 「インターネットの際立って水平的で絶対自由主義的な構造」は、ネオリベやリバタリアニズムなど「多様なかたちの」アナキズムを生み出している。 p23 「アナルコ」キャピタリズムは、アナキズムの伝統に属するものではなく、アナキズムという名を横領しているのだ。なぜ「アナルコ」キャピタリストはアナキストではなく(…)、どの点で真正なアナキストと異なるのかを(私有財産、平等、搾取、ヒエラルキー批判といった本質的な問いに関して)示し、(…)リバタリアンによるアナキズム的主張に対する全般的な批判をおこない、(…)アナキストがそのような理論をアナキズムの自由や理想に対立するものとして捨て去る理由を明らかに[しなければならない]。 革命的アナキズムはブルジョアにとっての脅威であるが、ブルジョアが支持している経済学者たちは政府機能の縮小や政府の廃止を唱えており、市場のアナキズムとして共存している。
存在するのは複数のアナキズムで、唯一のアナキズムはあるのか?
たしかに複数の事象がおきているが、事象の複数性を絶えず強調することは、その事象を思考しないことにもなり得る。
「アナキズム的なものが存在する」ということだけは言える。
哲学的アナーキーと政治的アナキズムの差異
同じ錯綜した問いから出発しているの一方が他方を知らないという事態。
支配とは権力の問題だという認識は共通
政治的アナキズムは哲学的考察に敵意を向ける。
理論と実践の内在関係が肯定されており、矛盾的である。
アナキズムは単純に国家を攻撃したことはない。
小さな支配などはない。
マルクス主義者はアナキストが支配と搾取を別々にしていると非難してきたが、アナキストは資本主義への批判を一瞬たりとも手放さずに、権力の問題が生のあらゆる領域に浸透していて特別な注意と考察が必要であると考えている。 国家は統治(被統治者と統治者のあいだに分割線を引き、非対称性を確立すること)の口実でしかないという事実において、国家を批判する。
「アルケーとは、統治して行使される権力と国家主権との交点に政治の問いを位置づける原理である。」 西洋思想の伝統の始まりにおいて結ばれてしまっている。
アルケーは必然性を欠いており(政治的秩序が自分自身を基礎づける能力を持たない)、哲学者たちも形而上学の脱構築という条件の元でアルケー・パラダイムの打倒が生じている。
存在論的脱構成「存在論的アナーキー」
倫理的脱構成「無始原的な責任」
しかし哲学者はアナキズムの伝統をいささかも参照しない。
結局は形而上学的操作であり、哲学的アナーキーはアナキズムなきアナーキーという逆説的なかたちとして現れる。
p38 だが、シュールマン、レヴィナス、デリダ、フーコー、アガンベン。ランシエールがマルクス主義よりもアナキズムの近くにいることは疑いえない。それでは、なぜこれらの哲学者たちは、一般にアナキズムの立場に結びつけられているあらゆるクリシェを振り払いながら、みずからの身振りのアナキズム的側面を練り上げていくということをしなかったのだろうか。
アナキズムのクリシェ:不可能なこと、実現不可能なこと、テロリストの暴力等々
ポスト構造主義とアナキズム、ポスト・アナキスト
権力/抵抗という従来の二項対立に立脚するアナキズムに対して、権力の源泉とされるものを批判。 伝統的なアナキストの政治は近代に閉じこもっていてリアリティ
とはいえポスト・アナキストは自らのアナーキーという概念のアナキズム的側面を決して概念化しなかった点で、問題を回避しようとしているのでは?
p41私がここで分析したいのは、アナーキーについての哲学的思考において生じている内的な切り離しにほかならない。これは三重の切り離しであり、思考されざるもの、盗み、否定から生じる。
思考されざるもの:アナーキーという哲学的概念の起源
思考されざるままである。この概念の可能性は19世紀になされたプルードンの『所有とはなにか』における「私はアナキストである」からスタートしている。もともとはギリシア語のanarkhaを受け継いだ古い語に新たな意味を与えた。 古代から「アナーキー」は無秩序的な否定的な意味を持ち続けていた。
この意味の革命がなければ無秩序やカオスというアナーキーな概念の乗り越えや、哲学的概念の創造もなかった。
盗み:現代の哲学はアナキズムの思考から何ものかを奪った。
「所有とはなにか。(…)それは盗みである」。プルードンの言葉は、盗みがつねにそれ自身を隠蔽する方向へと向かうことを描き出している。
略奪の結果である私有財産は、権利によって保護され、法的に正当化される。
p46 そうであれば、アナキストからアナーキーを哲学が盗んだというのは言いすぎだろうか。
否定:哲学者たちは人々が統治されずに生きる可能性を1秒たりとも考えてはいない。
ホッブズはアナーキーに対してこの上なく敵対的な思想家でありながら、政治を別な形で理解する可能性を示す。 アルケーから出発せずに、アルケーに対する抵抗、「アナーキー」を出発点とする。
フーコーやアガンベンの読み。
とはいえどのようにアナーキーを語る哲学者たちが権威的な原理に逆説的に根差した無秩序の体制とみなしがちであるのは間違いない。ラディカルさを標榜しながら、ラディカルさの瀬戸際で踏みとどまってしまう。
哲学的アナーキー(アナキズム)と政治的アナキズムの出会いの共同作業の場。
p53 〈統治されざるもの〉とは、個人においても共同体においても、どこまでも命令や服従とは根本的に異質で無縁なもののことなのだ。
p53 統治に対するアナキズムの批判は、偏った先入見などではない。アナキズムの批判は、統治することは「悪」だと考えるのではなく、統治することは不可能だと考える。こうした不可能性は、存在から心理、実践、芸術、生命にまで広がる結合の網目のように、多様なかたちで現実の中に刻み込まれている。この不可能性の風景は、いかなる統治も届きえず、管理しえない存在と魂の領域と一致している。
ここアツい
取り扱う方法は、積極的に無視したり、圧迫したり、締め付けたり、致死的な状態に追い込んだりして、〈統治されざるもの〉と交渉しないことなのである。
フーコーが『生政治の誕生』で見事に示しているように、アナルコ・キャピタリズムは国家や統治する政府が市場に介入することに対して疑問を投げかけるが、これはどこまでも統治される者のイデオロギーである。 アナルコ・キャピタリズムが「統治可能性」を信頼していることは、それが新自由主義の枝分かれでしかないことを示す。